北イタリーの旅ーアジアゴという町にてー
9月21日午後2時、97才の兄と88才の私は、姪と共に羽田を飛び立ちました。北イタリーのアジアゴという町で、姪のコンサートが開かれるのに同行したのです。「おじさんとおじいちゃんと一緒なんて夢のようだわ」と姪は「おじさんは絵の道具だけ持ってくればいいです。他は私がみんなやりますから」とその通りにしてくれました。杖をついて歩く兄には、列車の乗り換え、飛行機の乗り継ぎ等には、出発地盛岡駅の改札口から、ヴェネツィアのマルコポーロ空港の出口まで、見事としか言いようのない国際的連携プレーで、車椅子や電動車により乗降できたのでした。
マルコポーロという懐かしい名前の空港には、今度のコンサートのプロデュースをしてくれる姪の友人が車で迎えに来てくれていて、そこから1時間余、北に向って走りました。途中、ハイウェーの掲示板に0:00と時刻が示されました。
友人の家のすぐ近くのホテルで、最初の朝を迎えた時、窓の外に拡がる広大な牧場となだらかな丘の連らなりが目に入りました。あちこちの丘の上には白い集落があり、そこには必ず教会の高い塔がありました。直ぐ近くの丘に大きなベージュ色の塔が建っています。 第一次大戦の時、ここで大きな戦争があり、2万人を超す死者が出たそうで、その慰霊塔だったのです。初めて知りましたが、「アジアゴの戦」として有名で、かのヘミングウェーもここで戦ったということでした。私たちは、第一日目はこの記念すべき塔を描くことに決めました。青空を雲が流れ、その中に警え立つ塔を見上げる道路の傍の木陰に画架を据えました。
お昼になり、食事のために画も道具もそのままにして一時間程出かけました。帰りに「大丈夫かな、盗られはしなかったかな」「画だけ盗られたというなら嫡しいね」「でも画だけ置いて行かれたらショックだぞ」そんなことを言いながら戻ってみたら、何もかもそのままになっていました。
実は兄は12年前にもここに来ていて、憶えてくれている人も多く大変懐かしがってくれました。お茶に招ばれたこともあります。
標高1,000米、人口6,000人余りのこの地に、日本人はこの一家族だけで、ご主人はガリレオ縁りの天文台に長く勤めています。高校3年と1年の娘が居て町の学校に通っていますが、驚いたことに、ヴェローナという、ロメオとジュリエットの舞台となった町の音楽大学の学生でもあるのです。しかも公費で、高校の授業の無い時に行って勉強するのです。イタリーでは才能があれば、飛び級どころかこうした扱いもするのだそうで、優秀な若者は「国の宝」という考えに基づいているのは流石と思いました。家では日本人としての躾が厳しくされ、しかも家の手伝いをよくするのに感心しました。音楽であれ何であれ、本ものはこうした中から生まれ育つのかもしれないと思いました。やがてこの一家がこの地で如何に信頼され愛されているかを知ることとなりました。
ここアジアゴには5泊しました。美しい自然と古い集落の美しい建物で、どこも絵になるのですが、毎日朝食前にその日のスケッチ場所を決めるために、知人の車で出かけました。ここは石灰岩の上にあって大理石の採掘場も目につきます。ある山の上の小さな村に行った時のことです。下見に行った時、緑の斜面に秋芳台のように石灰岩の集まりに見えたのが、実は羊の群で、丁度秋が深まって牧舎に帰るところにぶつかってしまいました。怒ち泡立っ大きな波にのみこまれたようになりました。群を離れた羊を牧羊犬が実に上手に流れに戻します。思いがけない体験の後に目的地に着きました。 遥か遠くにモン・ミレーテという名の石灰岩の大きな山の見える村の小さな広場の一角で描くことにしました。すぐ傍らにやはり教会があり入口にサロメの壁画がありました。
お午になり、つくってもらった弁当を食べ終った頃、広場に子供達が集まって来て、自転車に乗る子、それを追いかける子、数人でゲームをして遊ぶもの、その生き生きした顔と身体の動きに見とれました。こんな風景は、昔の日本では普通に見られたものですが、 今では殆ど目にすることは無くなってしまいました。やがて何人か私達のところに寄って来ました。手まね足まねと簡単な英語で話しかけても通じません。そんな時、兄が「何人いるかな」と言って「ワン、ツー、スリー」と数え始めたら、子供達は一世に「ワン、ツー、スリー」と言うのです。兄は喜んで「ワン」と言って片手を上げ、「ツー」と言って両手を上げ、そんなゼスチュアルに合わせて子供達も「ワン、ツー、スリー」と言います。「ナイン」のところでペロッと舌を出すと大喜び。「テン」で兄は帽子をちょっと上げて、つるつるの頭をちらっと見せるとみんな笑い転げて、もう一度、もう一度とせがみ、兄もすっかり乗せられて何度もやってみせるのです。その中、遠くに居た子供も集まって来て「ワン、ツー、スリー」が続くのでした。しばらくして、教会の鐘が鳴り出し、子供達は口々に「チャオ」と手を挙げながら、さーっと広場から消えて行ってしまいました。日本なら、さしずめ塾に行く子が多いでしょうが、この子達はきっと家の手伝いをするのではないでしょうか。私達は又画を描き始めました。
こうして、子供達を含めこの地に住む人々との交流を通して、ここでは何と時間が悠々と流れているのだろうと感じました。そしてそんな時間と自然に委せて生活している人々の何と豊かなことか。 今の日本が失ってしまったものが、まだここにあり、しかも、時代におくれているのではない、貴重なものを当然のものとして守り続けている、宗教心と言ってもいい信条があるように感じました。
そして、ここの本当の景色は、そう簡単に描けるものではないということを痛感しました。
アジアゴの教会には、私達兄弟の絵が飾られ、姪のコンサートは夜の8時に開演。日本の歌からカンッォーネそしてイタリーオペラの有名なアリアと続き、会場は満席で大成功でした。
先日、このコンサートの模様や私達兄弟のことが、描いた絵と共に地元の新聞一頁にカラーで紹介されたものが送られて来ました。