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5月3日の朝

309号 2016年6月発行に掲載

5月3日の朝、起きてきた私に「玄関先にこんなものが置いてあったよ」と家人がハトロン紙に包んだ一寸重い物を持って来ました。そこにはマジックペンで、大きく「自分のことしか考えない憲法9条を守る会の君へ。東日本震災の時の行動を考えてみろ」と書いてあり、自分の名前はありませんでした。こういう手のものは、無視するのですが、「まさか爆発物ではないでしょうね」と言われ、包みを開いてみますと、何年か前にチャリティで出品した私の信濃川を描いた油絵が入っていました。「坊主憎けりゃ何とかか、可哀そうに、離縁されて帰ってきたか」と笑ってしまいましたが、何故堂々と向き合えないのかという慣りと、憲法を守ろうとする者への的はずれの認識にやりきれない思いがしました。

この日は午後1時半から、第11回の「憲法9条を守る長岡の集い」が開かれることになっていましたが、今年は、この同じ時間に、長岡市内のある会場で、中曽根元首相と桜井良子氏達の、もう一つの憲法の会が開かれることになっていました。絵を突返しに来た男(?)が、私たちの会に来てくれるとよかったのですが、きっと向うの会に出たことと思います。

5月3日は、毎年、市の中心にある大きなホールで成人式が行われます。私たちは式の始まる前に、会場に着飾って集まってくる新成人に「おめでとう」と言葉をかけながら、日本国憲法前文と9条を書いたチラシを渡すことにしていました。一昨年までは、中々受けとってもらえず、「この人たちの未来のためにやっていることなのに」と空しい気持に陥ることがありましたが、昨年からは違って来ました。そして今年、拒否する者より受け取ってくれる者が圧倒的に多くなっていたのです。日本の未来は、この人達が変えてくれるかもしれないという期待を持たされたのでした。30分程でチラシは全部無くなり午前11時前、広場一杯の華やかに着飾った若者達が会場に吸いこまれて行きました。

午後1時30分、五月晴れの空の下、長岡中央図書館のホールに150人の人が集まり、私たちの会が始まりました。

この会の始まる前に、憲法の前文が読み上げられます。「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚する」とか「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」更に「われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」とか、胸の熱くなるような格調のある言葉で国の理想を謳っています。今朝の”匿名氏”はこの前文を読んだことがあるのだろうかと思いました。

この会にはいつも、私の詩「若者よ」の歌が流されますが、今年は、この曲をギター用に編曲した、9条の会の世話人でもあり、県音楽協会の重鎮でもある畠山徳雄氏のギター演奏と、この日美しい歌を披露してくれたソプラノ歌手の朗読という新しいバージョンで「若者よ」が披露され、しみじみとしたいいアイディアでした。

特別講演は、私が推せんした、前長岡造形大学理事長の豊口 協氏によるものでした。国際的な工業デザイナーで数々の優れた業績を遺していますが、私どもにとっては、20年以上前、当時の長岡市長の懇請によりこの長岡の地に、ユニークな造形大学を設立してくれたことと、地ひびきで何度も書かせて頂いた、丸山正三先生の3000点に及ぶ全作品を収蔵展示する「MaRouの社」という 美術館を建てるのに造形大学の広いキャンパスの一番美しい場所を提供して下さったことでした。30才そこそこで、大阪万博の大きな仕事を堺屋太一から委された話から始まり、日本は科学技術で世界に貢献して行かなければならないことを、貴重な体験を通して熱っぽく語り、中国や東南アジアで講演したり仕事をすること、優秀な若者が日本への留学幹旋を希望して来る、その本心は、留学した後に徴兵のない日本に帰化し思いっ切りやりたい仕事をするということで、若者の未来への可能性が権力によって奪い去られることのない日本が如何に美深ましい国か、これもこの憲法9条があるからで、日本の若者もそのことをよく考えてほしいこと、今の憲法はアメリカから押しつけられたと改正論者は言うが、とんでもないことで、あの敗戦後、これからの日本はこのような生き方をするしかないと自ら考えて受け入れたもので、そのことをよく考え、若い者に教えてやらなければならない。今、日本の大学で現代史をしっかり教えていない。あるとしても選択科目になっている。こんな国は日本以外どこにもないというのです。学生が日本のここ100年の歴史を学ばず、そのまま、外務省に入ったとしたら、一体どうなるだろうと、国際人である豊口氏の言葉は実に説得力がありました。

これからは、若い者に、しっかり現代史と憲法の内容と成立の経緯を教えることが大切ですとしめくくりました。

豊口氏とは、私が丸山正三絵画館設立準備委員長だったこともあり、長いつき合いで、仕事柄世界各国を歩いていて、その土地々々の酒や食べ物に興味を持ってそんなことが話の中に度々出て来て楽しいものでした。或る時、若い教授に、講義中、学生を眠らせるようじゃ失格だな、と話していたことがありますが、この人の講義ならきっと学生は眠ることはないだろうなと思ったのでした。そんな人の講演ですから、私は密かに期待するものがありました。講演の数日前に電話を頂き「堅い話でなくてもいいのですか」と訊かれま した。「いいですとも。豊口流でやって下さい」と言いました。この人ならみんなを楽しませ、時には笑わせ、そして終った時にしっかりと伝えたいことが聴く人の心に残るに違いないと思っていたのです。会が終了した時、世話人のみんなから「よかったですね」「このまま帰ってもらうのが惜しいですね、先生を囲む会を設けたかったですね」などと言われました。翌朝、豊口氏から電話がありました。「少しはお役に立ったでしょうか」と。「みんなとても喜んでいました。先生のお話は沢山の若い人に聞かせたかったですね」お礼を言いながらいつかそんな機会を作りたいと思っていました。(〒940-1101 長岡市沢田2-6-12)