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遊びをせんとや生まれけん

292号 2013年8月20日発行に掲載

「あなたの元気の秘訣は何ですか」とよく聞かれます。自分が特別に丈夫とか元気とか思ったことはないのですが、そんな時、「もし私にそんなものがあるとしたら、いつも今度の休みには何をしようかなと考えていることでしょうか」と言っています。私の場合、主にどこに写生に行こうかということになるのですが、その他にもやりたいことが沢山あるのです。「よくそんなに動き廻っていて疲れることはないのですか」とも聞かれますが、そう言えば、私はあまり「疲れた」とか「くたびれた」と人に言うことはなく、むしろ若い人がなんでこんなにすぐ「疲れた!」と言うのだろうと前々から気になっていました。

しかし、私も以前は今と違っていました。私は85才になった今も現役の医者の仕事をしていますが、仕事上、何時、どんな人が、どんな悩みで来られるか決まっていませんので、時間中はどうしても神経を使います。22年前に一人で開業した時は、毎日フルに仕事をし、風邪をひいても薬をのみながら続けたものでした。そのため病状が長びき、それが顔や動きに出たのでしょう。ある日、一人の患者さんから「先生、どこか悪いんですか」と訊かれました。「どうして?」と訝る私に、その人は「先刻、待合室でお年寄りの患者さんが、先生はどこか病気なんじゃないだろうか。もしそうだったら私たちはどこに行けばいいのだろう、と話していらっしゃいました。私も、今の先生は前と違うと思います」と言ったのです。私は、はっとして、医者は常に元気で明るい顔で患者さんに接しなければならないのに何としたことか。これでは医者の資格がないと気がつきました。私はこの人に心から感謝しました。

この時、私は「頑張るだけでは能がない」と思い、思い切って、週の三日は午後休診とし、丁度、学校が第二、第四土曜を休みにした時だったので、私もこの日を休診にしました。仕事で神経を使う分、それから開放された時は思いっきり質の違う事を楽しもうと心がけました。患者さんも気持ちよく協力してくださいましたし、職員も生き生きとして、毎日の仕事にリズムが生まれました。

身体の疲れは、一晩寝ると殆ど治りますが、精神的なそれは、むしろ身体を動かすことです。スポーツを楽しめれば一番いいのですが、それが苦手な私は、絵を描くことの他に、庭の草むしり、小さな畑仕事、20年以上続けている毎日の家族のための朝食づくりも、遊び感覚でやり、その為の買い物も楽しいものになりました。そしてお酒です。絵は上手に描こうとか、賞を狙うとかではむしろ神経を使うことで逆効果ですが、私の場合、年をとってからは、自然の懐にとびこんで、身を委せる気持ちで描くようになり、写生は大変楽しいものになりました。酒は種類や銘柄など二の次で、一番は誰と飲むかで、つまり楽しい酒を飲むことです。人が傍で見て、いつも忙しそうに動き廻っているように見られますが、私がいつも何かを追いかけているからなのでしょう。まるで子供のようにです。

布施 明のヒット曲「シクラメンの香り」に「疲れを知らない子供のように」という文句があります。幼い子供は大して食べもしないで動き廻っているのに驚きますが、何にでも興味を持って、一つのことに飽きるとすぐに次のものに移る、「正に遊びの天才」と言われる理由がそこにあります。昔は、学校に上がると「よく学び、よく遊べ」といつも言われていましたが、何時の頃からか耳にしなくなりました。戦争の頃からでしょうか、経済優先の時代になってからでしょうか。「ゆとり教育」などと言う言葉も消えてしまいました。車の運転をする人なら誰でも知っている「ハンドルの遊び」ですが、これがなかったら極めて危険です。今の世の中、このぎすぎすした世の中は、人がこのような遊び、心のゆとりを失って来ているからではないかと気になります。私など今が遊び盛りと思っていますし、かなり遊び上手の方だと自負しております。

患者さんにいつも言っている事があります。「やりたくないことは無理してやらないことです。時に不義理をするようなことがあっても、それはいくらでも挽回のチャンスがあります。だけど、やりたいと思う楽しいことがあったら迷わずやって下さい」と。

考えてみますと、日本人は昔から極めて優れた遊びの感覚を持っていました。あらゆる芸術、文化、生活の中の「間」がそうです。「地ひびき」の俳句など読ませてもらいますと、正にこうした「遊び」の感性が躍如としているのを感じます。

「指標」の「平凡な隣人の生活の中の、美しいもの、しんけんなものに目を見張ろう」は、がむしゃらに突き進んでいるだけでは見えて来ないでしょう。

「地ひびき」の創始に関わった一人である佐藤州男さんのお宅に生前お伺いしたことがあります。広い居間の壁に、大きな額が掛けられていました。「これ分るでしょう」州男さんが指さされました。そこには、平安時代の俗謡「梁塵秘抄」の一節、「遊びをせんとや生まれけん云々」がありました。

優れた教育者でありながら、進行性筋ジストロフィーに侵され、教壇に立つことが出来なくなりましたが、気力はいささかも衰える事はなかった州男さんでした。弱者への共感と愛情、美しいものへの憧れ、真実なるものへの限りない探究心が、教育の現場を離れても、児童文学者として、数々の珠玉の如き作品を私たちに遺してくれました。亡くなる直前まで、総集会には必ず、若い同人に背負われて出席してくれました。その存在感は大したものでした。

その州男さんが過酷な病魔に打ちひしがれながらも、常に前向きに生きられたのは、いささかもぶれる事がなかった人間への愛であり、その背中を押しつづけたものは、どんな時にでも、自分を第三者の目で見ることが出来た心のゆとりから生まれた「遊び」の感覚ではなかったかと、今、改めて思い至るのです。